原作にはない由布院の名ロケーション「金鱗湖」の描写
日本の小説を海外に届けるとき、ただ「訳す」だけでは伝わらないものがある―。幻想的なロケーション描写が加わった『たぬさんの領分―内なる音楽への旅路』英語版では、由布院の名所「金鱗湖」を知らない読者のために、詳細な描写が追加されています。これは単なる脚色ではなく、英語圏の読者に向けた文化的翻案の一例。今回の抜粋で、その工夫をご覧いただけます。
主人公の男性がこの美しい幻想的な異次元のような世界で謎めいた女性に遭遇する始まりを、まずは抜粋でお楽しみください。
由布院は、九州の最南端に位置する大分県の中心部にあり、賑やかな都会の喧騒から遠く離れた静かな避暑地として知られています。
この美しい温泉の町には、毎分49キロリットルの湯を湧き出す源泉が900以上あるだけでなく、山々に囲まれた盆地に位置し、古くから神々の宿る場所として崇敬されている由布岳を望み、旅行者や温泉愛好者にとって憧れの地です。
少し足を伸ばすと、石垣や棚田、流れる小川といった懐かしい日本の田園風景が広がり訪れる人々を静かで時空を超えた静かな空間へ誘います。
一方で伝統的な日本の旅館、画廊、そして洒落たカフェにそそくさと人々が出入りする活気に満ちた一面もあり静寂と精気のコントラストがこの町を更に魅惑的にしています。
金鱗湖は、由布院で最も有名で人気のあるスポットの一つです。明治時代初期、儒学者の毛利空桑(もうり くうそう)が、湖面に映る魚の鱗が夕日で金色に輝くのを見て、「金鱗湖」とこの湖を名付けたと言われています。
金鱗湖を取り囲む風景は四季折々に独特の美しさを醸し出しますが、湖底や近くの温泉から湧き出る湯によって湖自体の水温が高いため、周囲の気温との温度差から、晩秋から冬にかけて湖面から湯気が立ち上り、特に幻想的な雰囲気が最高潮に達します。

湖面に湯気が立ち上り、今にも神が現れるかのような高揚した雰囲気がクライマックスを迎えます。
周囲の木々や山々の紅葉が赤や黄色に染まる11月上旬から中旬にかけて、その色彩が静かな湖の鏡のような水面に反射します。
天祖神社の厳かな鳥居と神聖な由布岳を背景に、色とりどりの鏡のような水面に湯気が立ち上がり、まるで神が現れるのを待っているかのように神秘的な高揚感に包まれるのです。
この幻想的な風景をさらに神秘的にしているのが、「トワイライト・ミラージュ」と呼ばれる年に一度の特別な現象です。太陽が地平線の彼方へ沈むとき、黄金に輝く夕陽が金燐湖のきらめく水面に呼応するように広がります。その瞬間、沈む太陽と昇る月が完璧に重なり合い、この神秘的な光が湖を一瞬の間だけ包み込むのです。水面はまるで夢の中かと錯覚するように色彩を変え、幻想的に煌めくのです。
地元の人々は、この「トワイライト・ミラージュ」を目撃すると幸運が訪れると信じており、この光景を実際に目にすることができるのは、本当に運の良いわずかな人々だけです。
金鱗湖は北側からの眺めが特に格別です。静かな湖面の向こうには、穏やかに、そして控えめに、柳の木々が水際まで連なっています。そよ風が吹き抜けるたび、葉がこっそりと何かを囁いているかのようです。左手には緑に包まれた古びた神社の背が見え、古い杉の木からはほんのりとした落ち着いた香りが漂い、周囲の森の土の香りと溶け合っています。
私は湖畔のレストランで三杯目のコーヒーをじっくりと味わいながら、長い時間を過ごし、この景色をひとり占めしていました。
この幻想的なロケーションで主人公の男性が謎めいた女性に遭遇する続きは、新刊『たぬさんの領分―内なる音楽への旅路』で・・・。